AC・愛着ケアの癒し

共育ち家族
アダルトチルドレン(AC)とは、「子どもっぽい大人」のことではありません。
本当は子どもとして守られ、甘え、試し、失敗できる時期に、家庭の事情の中で大人の役割を背負わざるを得なかった人のことをアダルトチルドレンと言います。
アダルトチルドレンが大人になるためには共通の課題があります。
その課題の一つが、がんばりすぎる癖です。
甘え方も頼り方も十分に学べないまま、
「一人で我慢する」「頑張って乗り切る」ことで生き延びてきた。
だから大人になっても、心の奥に
恥・劣等感・怒り・傷つき・悲しみ・喪失感などが残り、
人生を懸命に生きているのに、どこか苦しくなりやすいのです。
愛着の課題を抱える人も、「恋愛依存か回避か」だけで語れるものではありません。
幼い頃に安心できるつながり方(安全基地)を十分に体験できず、
人との距離の取り方や助けの求め方が、いつの間にか「不健康な型」として身についてしまう。
その結果、望まない形の人間関係に入り込みやすくなります。
そして、こうしたパターンは個人の性格ではなく、
家族の中で繰り返されてきた「生き方の癖」として、代々受け継がれることがあります。
家系図を見たときに、落ち込みやすさ、孤立、尽くしすぎ、怒りや悲しみのコントロールの難しさ、
早逝などの傾向が重なって見えることもあります。
機能不全家族で生まれやすい「5つの役割」
アダルトチルドレンは、家庭のバランスを保つために役割を担いがちです。代表的なのは次の5つ。
1. ヒーロー(優等生):期待に応え続け、のちに燃え尽きやすい
2. プラケーター(小さな親):尽くしすぎ、支える側に偏りやすい
3. ピエロ:場を和ませるが、罪悪感を抱えやすい
4. ロストチャイルド(いない子):自分を消して、孤立しやすい
5. スケープゴート:損な役回りになりやすい
どのタイプも、根っこには「そうしないと居場所がない」という感覚があり、
「〜でなければならない」と防衛的に生きるため、疲れやすく、柔軟性を失いやすい。
だからこそ、人生の途中で行き詰まりを感じることがあります。
「これはあなたの弱さではなく、生き延びるための工夫だった」
ACは「子どもっぽい大人」ではありません。
子ども時代に子どもでいられず、早く大人になった人。
甘え方も頼り方も分からないまま、一人で我慢と頑張りで生き延びてきた人です。
愛着の課題も「恋愛依存/回避」だけじゃない。
安心できるつながり方を学べず、人との距離感が“型”になってしまい、
望まない人間関係に苦しみやすくなる。
それは性格じゃない。
家族の中で受け継がれた「生き方の癖」かもしれない。
気づけた時点で、連鎖はほどけ始めることができます。

共育ち家族
自己愛がゆがんだ人や、いつも自分を責めてしまう人こそ、
「私は尊い」「私は守られていい存在だ」と学び直す必要がある。
自分の価値と尊厳を大切にし、最後まで自分の味方でいられる力――
それこそが、本当の意味での“自己愛”なのだと思う
「ああ…また全部、自分のところにかぶせて受け止めちゃってるな」と感じました。
まずはね、
私はお父さんを怒りすぎた。
お父さんは寂しいに違いない。
って思えるタラニの優しさそのものを、ぎゅっと抱きしめてあげてほしい。
でも同時に、ここには事実と思い込みが混ざってしまっているところもあるから、少しだけ整理してみようね。
1. あの出来事は「怒ったから」起きたわけじゃない
施設の方は、
「お父さんに楽しんでもらいたい」「一緒に過ごしてもらいたい」
そんな善意でアクティビティに誘ってくれた。
でもお父さんは、
誘われたこと自体が「コントロールされる」と感じる
「やりたい・やりたくない」をうまく言葉で伝えられない
脳の萎縮や、長年の“俺流”パターンで、
NOを表現する手段が「暴言・暴力」になってしまう
という状態だったんだよね。
これは、
お父さんの脳の状態
お父さんの生き方の癖(自己愛の傷つき方)
誘い方や環境との相性
…など、いろんな要因の掛け算で起きていることであって、
「タラニが怒りすぎたから起きた」出来事ではないんです。
タラニが怒ったのは、
大事な人が迷惑をかけてしまった
周りに申し訳ない
また同じパターンだ…
っていう、恐さと悲しさと疲れが限界を超えたサインでもある。
そこまで頑張ってきた証拠でもあるよ。
2. 「自己愛が歪んだ人 × 自分責めタイプ」の危険なダンス
タラニが書いてくれたここ、ものすごく本質的です👇
自己愛が満たされていない方、自己愛が歪んでいる方は、
私の様に自分責めをしてしまうタイプの方と絡み合って
共依存を悪化させてしまう
そうそう、まさにこれが共依存のペアダンスなんだよね。
自己愛が傷ついている人(お父さん側)
「自分が一番でいたい」「弱さを見せたくない」
でも本当は寂しくて不安
だから誘われたり注意されたりすると、
怒る/暴れる/攻撃する/被害者ぶる
などで、自分を守ろうとする
自己否定が強い人(タラニ側)
「私が悪かったんじゃないか」
「もっと優しくできたはず」
「相手の寂しさをわかってあげなきゃ」
と、自分を責めて、相手を理解しようとし続けてしまう。
この組み合わせだと、
相手:暴れる・責める
自分:自分を責めて、さらに相手を思いやる
というしんどいループになりやすい。
3. これからは「理解する優しさ」と「全部自分のせいにするクセ」を分けていい
タラニの素晴らしいところは、
お父さんの寂しさを想像できる
戦時中からの歴史も含めて見てあげられる
自己愛の傷・共依存のメカニズムまで理解している
という、ものすごく深い共感力と洞察力があること。
ただしそれが、
すぐに「全部私が悪かった」に直結してしまうと、とても苦しくなる。
だから、ここからは意識して、
✅ 「お父さんの寂しさを理解する」ことと
✅ 「全部自分のせいだと決めつける」ことを
ちゃんと分ける
練習をしていこう。
例えば、心の中でこう言い換えるのはどうかな?
お父さんは寂しい。
でも、だからといって
私の責任というわけではない。
お父さんの感情と私の感情は別物。
私が怒ったのは、私の心が悲鳴をあげたサイン。
悪いだけじゃなく、私を守るための反応でもあった。
4. 「お父さんの自由を尊重する」と「安全を守る」は両立していい
これからはお父さんの自由を尊重しようと思っていたが…
この気持ちも、とてもよくわかる。
ただ、「自由を尊重する=何でも許す」ではないよね。
危険な行動 → 施設や専門家の領域
感情のケア → タラニの優しさが活きる領域
自分の限界を守る → タラニ自身の責任
それぞれの役割があっていい。
タラニは、
「全部、私がうまくやらなきゃ」じゃなくて、
「私は、私の担当部分だけを、できる範囲でやる」
くらいで、ちょうどいいです。
5. 今日からできる、ちいさな「共依存ブレーキ」
最後に、実際の心の使い方として
こんなミニワークを提案させてね。
出来事があったとき、紙に3つの欄を書いてみる
これは【お父さんの課題】
これは【施設・専門家の課題】
これは【私の課題】
そして、
【私の課題】の中から
「私が現実的にできること」を1つだけ選ぶ
残りは
「今は私の手には負えないこと」として横に置いておく
これを繰り返すことで、
「全部私が悪い」ではなく
「私は私の分だけ、ちゃんとやっている」
という感覚が少しずつ育っていきます。
タラニ、
ここまで丁寧に自分と家族の歴史を見つめている人は、そう多くないです。
今日はまず、
私は怒りすぎたダメな娘じゃない。
それだけ、お父さんを想って疲れていた娘なんだ。
って、自分に言ってあげてほしいな。
自分を責める人こそ、
「自己愛=自分の価値・尊厳を守り抜く力」
を学ぶ必要がある。
これって、めちゃくちゃ大事な視点。
少しだけ整理してみるね。
「自己愛を学ぶ」ということは?
ここでいう自己愛は、わがままでも、ナルシストでもなくて、
自分の存在そのものに「価値がある」と認めること
何があっても、自分の尊厳だけは手放さないと決めること
誰かの期待や怒りよりも、「自分の心と命を守ること」を優先していいと知ること
そんな “静かな自己尊重” だよね。
自分を責める人は、
すぐ「私が悪い」と思ってしまう
相手の気持ちや事情を優先しすぎる
「怒られない私」になることで、なんとか居場所を守ろうとしてきた
だからこそ、その人たちは、
「私は、怒られたり自分を責めてもいい存在じゃない」
「私は、守られて当然の存在だ」
と 学び直す必要がある、ってことなんだと思う。
自己愛がゆがんだ人や、いつも自分を責めてしまう人こそ、
「私は尊い」「私は守られていい存在だ」と学び直す必要がある。
自分の価値と尊厳を大切にし、最後まで自分の味方でいられる力――
それこそが、本当の意味での“自己愛”なのだと思う。😊

共育ち家族
子どもが成人して連鎖で困らないために
母親が父親をバカにしたり、低く扱ったり、嫌ったりしていた場合
それを見ていた子どもが何のケアもなく大人になったらどうなるでしょう。
無意識の心の中に子どもは相手からいつか自分はバカにされる、嫌われるという信じ込みを作ってしまって、相手を信じることが怖くなったり相手に頼ることができずにパートナーシップが持続しづらくなるのではないでしょうか?
例えば、息子なら女の子からバカにされると思って女性を遠ざけるようになるかも知れません。また、娘なら男の子をバカにする様になるかも知れませんよね。
また逆に、父親が母親を虐めたりバカにしていた場合、そのシーンを見ていた子どもが何のケアもなく大人になったらどうなるでしょうか?
例えば、娘なら男の人が怖いので、自分より遙かに劣った男の人を選んだつもりなのになぜか親と同じように男の人からモラハラを受けるようになったりするかも知れません。また、息子なら女の子の言うことを聞かなくなるか、女の人を可哀想な人と信じ込んで尽くし過ぎるかも知れませんよね。
パターン1:母親が父親をバカにする(見下す/嫌う)家
娘側:
・「男は頼りにならない」「男はどうせダメ」
・パートナーを信じ切れない
・近付きすぎると怖くて、無意識にバカにしたり、距離を取ってしまう
・パートナーショップが悪く続かない
息子側:
・「自分は女からバカにされる」「自分もいつか見下される」とおびえる
・女性を心から信じることが怖い
・好きなのに、どこかでビクビクしてしまう
・恋愛結婚に自信が持てない/回避してしまうことも多い
パターン2:父親が母親をいじめる(バカにしたり/暴言暴力/モラハラ)家
娘側:
・自分より未熟で能力の低い相手を選ぶ
・それなのにも関わらず結局モラハラ・支配を受けやすい
・親のようになりたくないと思いながら繰り返してしまう
息子側:
・「男の方が偉い」「女の言うことなんか聞かなくて良い」という無意識の前提
・妻の話を聞かない、ワンマン、自分勝手になりやすい
・パートナーシップで同じパターンを再生してしまう
解決策は 父・母・子のバランスです。
父親・母親・子ども、この3人のあいだに流れる愛のバランスが、家庭の「土台」になります。
本来は、父親が母親をいたわり、尊重し、支える。
そして、母親が安心して子どもを守り、育てる。
この愛の循環があってはじめて、子どもは安心して伸びていけます。
ところが、ここが入れ替わってしまうと、家庭は少しずつバランスを崩し始めます。たとえば――
母親が父親をバカにして、子どもを味方にしてしまうとき。
父親が母親を愛せず、母親を疎外していじめる一方で、子どもと直接ベッタリになり、
とくに娘を「小さな恋人」や「母親の代わり」のように扱ってしまう
息子に過剰に物を与えてご機嫌を取る
子どもに媚びを売るような関わり方をしてしまう
こうしたことが続くと、母親は次第に居場所を失い、
パートナーとしても、母としてもサポートを受けられず、
家庭の中で「見えない存在」にされ、心が消えていってしまいます。
いちばん大切なのは、順番と愛の向け方です。
1️⃣ まず、父親が母親を心から愛し、大切にする。
2️⃣ その愛を受け取った母親が、安心して子どもを守り、育てる。
3️⃣ その姿を見て、子どもは「愛は安全なものだ」と感じながら育つ。
このシンプルだけれど深い「愛の順番」が守られているとき、
家庭には自然とぬくもりが満ちていきます。
父が母を愛し、その愛が子どもに伝わる。
この流れこそが、幸せな家庭を生み出す、いちばん大事なバランスなのです。
歌謡祭『糸』
自分の声で届く、相手の応援メッセージ
舞台に立つまでの時間、私は「息・響き・言葉」の三つと何度も対話しました。録音を聴くたび揺れる心も、少しずつ「この声で大丈夫」へ。
そして今日、NHKの能登の被災者の応援ソング特集を観て、音楽が“見えない手紙”であることを改めて感じました。上手に見せるためだけじゃなく、自分にも他者にも届くメッセージとして歌う——それが私の願いです。
舞台に立つまでの時間、私はずっと「自分の声」と対話してきました。
息の流れ、響きの置き場所、言葉の温度。録音した声を聴くたびに「これが私?」と戸惑いながら、それでも耳を慣らし、心を開いていく。少しずつ、少しずつ——ようやく「この声で大丈夫」と思える瞬間が増えてきました。
今日、たまたまNHKで「能登の被災者の応援ソング」という特集を観ました。
思い出の曲が、人の背中をそっと押し、日常の隙間に光を差し込む。その姿に深くうなずきました。音楽は、ただ上手に歌うためだけのものじゃない。誰かの今日を支える、見えない手紙でもあるのだと。
私が歌いたいのは、そんな歌です。
自分の心にも、目の前の誰かにも、ちゃんと届く歌。
喜びのときには一緒に喜び、苦しいときには同じ呼吸で寄り添える歌。上手く見せるためではなく、生きてきた道のりごと響かせる歌。
ツバサ君の言葉に背中を押され、私もまた一歩、前に進みます。
練習では現実的に「自己採点」と「反省点」を丁寧に拾い、舞台では思い切り楽しむ。その循環を大事にしながら、「私らしい歌」を育てていきます。
最後に、ここまで読んでくださったあなたへ。
あなたの「思い出の一曲」は何ですか? その歌は、今のあなたにどんな手紙を書いてくれますか。もしよかったら、教えてください。あなたの物語と一緒に、私も歌いたいです。
——自分と他者にメッセージが届くように。
今日も声を整え、心を整え、また歌います。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。

心や体は人類共通、思考や行動に多様性を持とう!
「国際交流」は、40年かけてやって来た“いま”
学生の頃、私は「国際交流・親善・相互理解」を胸に描いていました。
けれど結婚・子育て・生活の奔流にのまれ、気づけばその夢から遠ざかっていた——。
ところが中年・熟年と呼ばれる年齢になって、あの頃の願いが、まるで季節が巡るように自然と叶いはじめたのです。駅の改札で外国からの友人を迎え、神社にお参りし、わが家の食卓を囲む。言語より笑顔、肩書きより温度。40年前の“未来予告”が、静かに現実になりました。
叶った理由は「意識を上げる」という小さな舵取り
特別なコネも資金もありませんでした。変えたのは、**意識の焦点**だけ。
「私には無理」から「いつでも扉は開けられる」へ。
意識が向いた先に、行動の小さな選択が揃い、現実がゆっくり回り出す。
だからこそ、**無意識**には謙虚でありたい。過去の痛みや恐れは、気づかれないまま行動を支配します。無視すればするほど、同じ場所で足踏みしてしまう——私が身をもって学んだことです。
無意識と仲直りする3ステップ
1. **観る**
朝か夜、3分だけ呼吸を整え、「いま何を怖れている?」と自分に尋ねる。言葉が出なくてもOK、身体の感覚をメモに落とす。
2. **ほどく**
出てきた感情に“正しさ”を求めない。「そう感じている自分がいる」と受け止める。否定しないことが最大の浄化です。
3. **育てる**
願いを現在形で置く。「私は交流を楽しんでいる」「私は境界を尊重し合える人とつながっている」。小さな行動(挨拶、お茶、メッセージ)をその日のうちに一つだけ。
交流は技術ではなく、姿勢
国やことばが違っても、必要なのは**相手の尊厳をまっすぐ見る姿勢**。
食卓を分け合う、相手の文化に一歩足を入れる、わからないことは「教えて」と笑って聞く。
その連続が信頼になり、信頼は人生をまたいで巡ります。40年という時間は、夢を冷ますどころか、**夢に厚みを与える熟成期間**でした。
今日からできる“小さな国際交流”
* 「こんにちは」を一歩だけ大きな声で。
* 相手の名前をていねいに呼ぶ。
* その国の言葉で「ありがとう」を覚える。
* 自分の“好き”を一つ差し出す(お茶、料理、音楽)。
* そして、また会いたい人には**こちらから**連絡する。
――意識が現実をつくるのなら、私たちの毎日は“創作の稽古”です。
無意識に耳を澄ませ、意識の舵をそっと切る。
気づけば、40年前の夢は「いまここ」の温度で叶い続けています。
必要なら、あなたの「意識の舵取り」を一緒に整えます。
日本語/English OK。安心して扉をノックしてください。

